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旭山城

歴史を色濃く残す旭山城跡

長野県庁の西に位置する標高785mの旭山山頂、ここに本城、中腹に大黒城、尾根の突端に小柴見城、上杉と武田両軍が争奪戦を繰り広げた場所が庫音旭山城跡です。
天文22年、上杉謙信は武田の軍勢が北信濃へ浸透することを食い止めるように、川中島に進出しました。
謙信が越後から出陣し、善光寺横山城に到着、信玄は犀川を経て大塚館に陣を構えます。
信玄は旭山城の栗田氏に兵を3000、弓800、鉄砲300を送って謙信の川中島進撃をけん制したのです。

謙信としては旭山城を落とさないと犀川を超えて信玄と対峙する事が出来ないため、涼銀は戦闘をしないままに200日という長い期間、対陣します。
この膠着状態に両兵士とも疲労し、戦意を失い、そこに入ったのが今川義元です。
お互いに困り果てている時に仲裁に入ってくれたことで、両軍ともに川中島から兵をのき、その一帯を領主たちに返還したのです。
第2回の川中島の合戦によって旭山城は上杉に破壊されたのですが、謙信によって再興されたといわれています。

旭山城は景観のいい山にあった

上杉謙信が旭山城を落とさないと信玄と対峙する事が出来ないとし、この旭山が戦いの拠点となったのは、山であったという事も理由の一つでしょう。
周囲を見渡すことのできる山は、戦国時代、多くの戦いのポイントとなりました。
山から周囲を見下ろすことができるというのは、戦いの上で、大いに役立つことなのです。

現代の旭山展望台から景色を見てみると、善光寺平など広く見渡すことができます。
この景色、眺望の良さを見ても、旭山が戦いの拠点となったことは容易に想像できます。

旭山城の築城

寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふによると、小笠原満経が信濃国水内郡栗田に城を構え、ここを旭城と名付けたと記されています。
しかし嘉吉3年同族信濃守持長、左京大夫宗康兄弟が家督を争いこれが合戦となります。

満経は持長を助け旭城に写し、信濃国漆田原で徳川家康と戦い、これを終わりにして滅ぼしたと書かれています。
大塔の合戦あたりに旭山城が築城され、その後、戦国時代の戦乱期に栗田氏の支城となったのです。

旭山城が廃城となる

弘治元年、犀川の対峙の際、信玄と謙信は結局対峙したまま2ヵ月を過ごしたのですが、この時、今川義元が斡旋し和睦となりました。
和睦の後、旭山城は廃城となったとされています。

長尾景虎が長慶寺に遣わした書状に、このことについて書かれています。
全国各地に、こうした知名度の高い武将たちが戦いの痕跡を残しているのです。
現在は旭山城跡となっていますが、その昔ここで信玄と謙信が歴史的な戦いを繰り広げたという事を思いしてみるのもいいでしょう。

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